| (編著:柏木 史楼 / 写真提供:中国国家観光局) |
中国4000年の歴史の中で、北京市が首都となったのは、それほど古いことではありません。中国初の全土統
一を成し遂げた(B.C.222年)秦はもちろん、その後の漢や隋・唐の時代にも国都ではなかったのです。北京が 国都となったのは、モンゴルの元王朝三代目皇帝フビライが1267年に大都と名づけたのが最初となりました。そ
れは今から八百数十年前のことに過ぎません。
とはいっても、北京は大都となる以前から華北の有力な都市でした。現代から50万年前と推定される北京原
人の痕跡が発見された周口店は、北京市から50kmのところにありますから、北京市を含めた周辺は、旧石器時 代から人類が居住していたはずです。紀元前千数百年の殷(いん)の時代には北京市付近に大きな集落が出
現していました。
殷の次の王朝である周代になると、実質的な周の創業者である武王の弟が封国となった燕の都として、北京
は薊という名前がつけられました。また、「燕京」とも言われたため、北京の雅称を、現在でも「燕」とか「燕京」と 言います。
戦国時代には燕は戦国の七雄の一つとして諸国と覇権を争いますが、やがて西方の秦が強力になり、秦王・ 政(後の始皇帝)が出現すると、天下をうかがうほどになりました。この時、燕の太子丹が秦王・政を暗殺しようと
して、刺客・荊軻(けいか)を差し向けますが、失敗に終わり、結局、秦に滅ぼされてしまいます。中国の超大作 映画「英雄」は、これを題材にしているようです。
その後、北京は華北の有力都市として、異民族を含めた地方政権の都となりました。遼国では「南京」(現在
の南京とは異なります)、金国では「中都」などとも呼称されていました。このようにして北京が全国統一王朝の 国都となるのは、元王朝の出現を待たなければならなかったのです。
しかし、元王朝の出現とともに実は、燕京つまり北京に史上最大の危機が訪れていました。というのは、遊牧
民族であったモンゴル人は、中国本土を占領したのはよいものの、人口が多過ぎることや全土が田畑に覆われ ていたことにひどくがっかりしました。彼らに必要だったのは、広大な遊牧地だったのです。そこで、北京の街を
焼き払い(当然、人口減らしも計画されていたでしょう)、全土を牧草地に変えてしまおうという話が出てきました 。その中で、皇帝フビライの重臣・耶律楚材(やりつそざい)が、農業や商業がいかに多くの富をもたらすかをフビライらに説き、北京が焼け野原になることと漢人の殺戮(さつりく)を防ぎました。
元が1368年に明によって滅ぼされてから、国都は一時、南京に移されましたが、燕に封じられていた三代目の永楽帝が政権を奪うと、北平に名前が変わっていた北京の名称を初めて北京(南京に対する「北の京」の意)に変えて、国都としました。この時、永楽帝は今の故宮である紫禁城も造営したのです。
1644年、農民軍の反乱によって滅んだ明に代わって、満州族の清が北京を占領しましたが、北京はそのまま
国都となりました。1840年のアヘン戦争で欧米列強によって中国は徹底的に痛めつけられ、北京市も略奪や放 火によって、大きな災禍を受けます。さらに1850年の太平天国の乱が続き、清王朝は最後の時を迎えました。
1912年、孫文が指導する辛亥革命によって王朝時代の幕が下りたのです。
辛亥革命によって成立した中華民国は、国都を南京に定めましたが、これは中国北部が軍閥に支配されてい
たためでした。孫文の後を継いだ蒋介石は、北伐を行って全国を統一しますが、満州や華北に日本軍の進出が 激しくなり、また、毛沢東が指導する中国共産党も次第に力を強めていました。
日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏すると、国民党と中国共産党との間で全面戦争となり、蒋介石と国民党は、これに敗北して台湾に逃れます。1949年10月、中国共産党の毛沢東が北京の大安門で建国宣言を行い、中華人民共和国が成立します。同時に、北京が再び首都に返り咲くことになりました。
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