| (編著:柏木 史楼 / 写真提供:中国国家観光局) |
長江(揚子江)デルタの平原となっていた上海地区は、既に5000年以上前から先住民が足跡が残していました。古代の上海地区が「滬涜(ことく)」と呼ばれたのは、この地区の漁民が「滬(こ)」という竹製の魚具を発明したことによると言われています。
春秋時代の上海は、中央諸国からは辺境の地とされ、「呉」に属していました。戦国時代になると、上海地区は初めは「越」に属し、その後「楚」の一部となりました。楚の考烈王は黄歇を春申君に封じ、上海はその領地の一部分となりました。上海の別称が「申」というのは、これに由来しています。
漢代では海塩県、婁(ろう)県の2県の地となり、梁以後は塩県、崑山(こんざん)県の地となっていました。唐代に江南地方の開拓が始まり、人口も急激に増え始め、751年には華亭県(現在の上海市松江区)が設置され、大きな集落が形成されるようになりました。

|
宋代になると、戦乱によって疲弊した華北に代わって経済の中心が華中に移り、特に上海地区が属する江南地方は、一大穀倉地帯となりました。その食料の保管や輸送地として、呉淞江・黄浦江の水運を利用できる上海地区が注目を浴びるようになりました。
南宋代の1267年には「上海鎮」が置かれましたが、そのころの上海地区には大きな浦(岸)が18ヵ所あり、その中の一つを上海浦と言っていたことから、この地区が「上海」と言われるようになりました。この「上海鎮」の設置により上海の都市としての歴史が始まります。
元代に入ると、上海地区はさらに大きな発展を見せ、1296年に上海鎮は「上海県」に昇格し、江浙省松江府に属しました。明代では、南直隷松江府に属して、中国最大の綿紡績の中心となり、商業が発展していきました。16世紀中ごろには倭寇(わこう)などに対する防衛のために城壁が築かれ、「県城」となりました。
清代は最初、江蘇省松江府に属し、海運都市として世界的に名が知られるようになり、1685年には上海に税関が置かれました。そうした中、オランダ、ポルトガル、イギリスなど西欧の列強との交易が始まりましたが、その中で、茶の輸入のため大きな貿易赤字を抱えたイギリスは、インドの阿片を中国に売って、その穴埋めにしようとしました。当然、こうした人道に反する行為に対して、清朝政府がそれを阻止しようとしたために、イギリスはフランスなどと共同で中国に侵攻、1840年のアヘン戦争が起きました。
英仏軍の攻勢に屈した清朝政府は1842年8月、西欧列強から上海など5港を通商港として開港するように強制されました。また、1845年にイギリスが初めて上海で租界を設立し、続いて米仏も租界を設立しました。1863年にイギリスとアメリカの租界を共同租界として合併した後、上海は実質的に華人界、共同租界、フランス租界という三つの部分に分けられた。後に、華人界は日本人が多く進出したため、日本租界と呼ばれるようになりました。
租界は国家間の条約によって認められたものではなく、日本を含めた欧米列強が、軍事力を背景に清朝政府に黙認させる形で実態上、植民地として事実上の支配権を得ていました。このように1843年以降の百年余りの間、上海は外国人による中国での商品ダンピング、原料、金銭財産の略奪の主要港となり、これにより上海は“冒険家のパラダイス”とか、“世界の魔窟”などと呼ばれていました。
第二次世界大戦が始まると、すべての租界は1941年に日本に接収されました。1945年の日本の敗戦により租界は中国に回収され、1949年5月27日に中国共産党により解放され、1958年に上海特別市として中央政府の直轄市となりました。
改革解放後の社会主義市場経済体制の中で、中国における上海の果たす役割は、ますます重要になり、経済、金融、科学技術、情報、文化の中心という国際的な現代大都市を形成するまでに発展してきています。
|